公立の学校は人生で最も難易度が高い酷なステージ
学校ハラスメント 内田良(著) 朝日新書
教育とはその営為の形式からして、ハラスメントとしての性格を内包している。
(6ページより)
本書を読み終えて、語りたいことは山程ありますが、その前にこの記事で用いる『ハラスメント』という言葉の定義を確認しておきます。
ハラスメント……人を困らせること。いやがらせ。
つまり、ハラスメントとは主体客体問わず、人を困らせることやいやがらせのことを意味します。
本書『学校ハラスメント』では、学校にまつわるハラスメント =「人を困らせること、いやがらせ」に関して総体的に取り上げています。
保護者として読む本書の意味
私は1人の親という立場で本書を読みました。
なぜなら、我が子の教育は最善であってほしいし、いじめに遭ったり遭わせたり、学力が低くなってしまったりをして欲しくないから。
そうして危機回避の念で本書を手に取りました。
そして、至った結論は以下です。
「子供を公立の学校には進学させまい」
視座・抽象度が合わない問題
本書は、学校で起こるハラスメントを主に生徒、教師、保護者、その他関係者の中で相互に起こる問題と捉えています。
一面的に教師が悪い、生徒が悪い、学校が悪いなどとは捉えていません。
そもそも、一事案一事案に対して是非を問うのではなく、その背景やそこに至る仕組みを問題視しているのです。
本書は例として特に具体的に取り上げている事案が2つあります。
組体操と甲子園です。
組体操でも甲子園でも、「感動」を第一のベネフィットとして、健康や安全や冷静な視座を軽んじていることが問題とされています。
そもそも、なぜこれらが問題となり得るのか、その源泉が本書には記されていなかったので私なりに考察してみました。
「教育」そのものの矛盾
本書を通じて何度も考えさせられましたが、「教育」という言葉はあらゆる事象をわかりにくくします。
それは「教育」という言葉自体が持つ意味が、私達の目的と合致していないからだと私は考えています。
まず、「教育」という言葉の矛盾について考えたいと思います。
教育とは、「教えて育む」ということですが、この主語は教える側となります。
以下の対談でわかりやすく説明されているので是非ご一読ください。
つまり、「教育」とは教える側が主役の言葉であり、私達が目的としている「子供が学ぶ」とは合致していないのです。
上記の対談でも記されている通り、親は決して子供に「教育されなさい」と思って学校に行かせてはいません。
「学んできなさい」と思っています。
教育とは教える側が生徒を「教え育むこと」であり、私達が教育に望んでいることは「子供が学ぶこと」です。
この2つの項目は主語の違い、意味の違いから多くのダブルバインド(二重拘束)を起こしていると考えられます。
ダブルバインドを起こしている場合、思考停止や強い精神的ストレスを生み出します。
これは私の推論ですが、過去、日本は本当に学校の目的は「教育」であった時代があったのではないかと思います。
具体的には戦後の混乱期、教える側が主役となり「人としての基礎」のようなものを学校で生徒に育ませなければならない事態が存在していたのではないでしょうか?
その文脈から捉えると、現在必要とされているのは「教育」ではなく「学育」(正確な単語ではありません)となります。
と、いった具合に、「教育」そのものの有り様をより深く探り、より理解し、方向性を見直すという視座を持つということが教育界には可能なのでしょうか?
一部の私立は別のステージ
実は、既に一部の私立の学校はそんな問題から抜け出し、「生徒が学ぶことを育む」ことを目的とした運営がなされていて、仕組みとして問題が無くなる方向性を持っています。
同じ学校運営で、なぜこのような差が生まれるのか?
それは学校運営者と保護者の視座と抽象度の高さの差に起因すると私は考えています。
『なぜ学校があるのか?なぜ生徒に学ぶことが必要なのか?なぜ私達は子供に学んでほしいのか?』
こういったことを自分自身に問い、答えを見出していく視座と抽象度の高さが、
「学校を教育の場 = 教える側のステージ」
と考えている(もしくはそう受け容れてしまっている)学校運営者や保護者と大きな差を生み出していると私は考えています。
残酷な話ですが、高い視座と抽象度を獲得している側は、それらが低い側にものを伝えるのが非常に難儀であることを知っているので、基本的には考え方を共有しようとは思えません。
(抽象度とは?という方におすすめの本)
抽象度を上げて「学校ハラスメント」を捉えた時、その原因は運営者と保護者の考え方の差であり、持てる資金の差であり、力の差であると見えてきます。
つまり、学校は「教育の場」という特別なものではなく、「社会の一部」なのです。
企業や国やその他の組織と同じ原則が適応されていて、それに気づけるか、仮にそうだとしたら、という視座で考えて行動できる組織となれるかが問題なのです。
これらはあくまで個人の私見ですが、本書に登場する問題ほとんどが、一部の私立の学校ではクリアされていることに目を向ける必要があります。
まとめ
本書を読み、学校は社会の中でも非常に難易度が高いステージだと、私は改めて考えさせられました。
それは立場も背景も違う人間同士が濃密に絡む場であるからです。
そういった場が得意な人間にとっては天国かもしれませんが、他の場を見出すことができない苦手な側にとっては地獄です。
現状、公立の学校はダブルバインドと濃密な人間関係に強い人達が輝くための場所です。
だから「教育」でものを語ることができるのだと思います。
悪い言い方をすると、学校とは「声が大き厄介者が跋扈する場」です。
そんな難易度の中で自分の尊厳を失わずに矛盾に直面している全ての教師、生徒、保護者、運営者の方にはなんと言葉を掛けたら良いのでしょうか?
漫画『3月のライオン』(著:羽海野チカ)では、 学年主任の先生がこう呟きます。
「『教育』か……
『教育』とはうまい事言ったもんだよ…
――『教える』に『育てる』か…
『育』の字が無けりゃ とっくに放り出してるぜ こんな事…」
『3月のライオン』(著:羽海野チカ) / 国分先生(学年主任)
当事者の多数である、生徒達にも絶対読んでほしい、本書はそんな一冊です。
学校ハラスメント 暴力・セクハラ・部活動ーなぜ教育は「行き過ぎる」か (朝日新書)
- 作者: 内田良
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
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